第23回常民文化研究講座・国際研究フォーラム「交差する日本農村研究—アチック・ミューゼアムとジョン・エンブリー」終了報告
日時:2019年12月14日(土)10:00~18:00
会場:神奈川大学横浜キャンパス 3号館305講堂
『アチックマンスリー』第5号に、「一九三五年九月一五日夜、シカゴ大学社会人類学調査員ジョン・フイー・エンブリー氏夫妻来訪」という記録がある。エンブリーは、博士課程の現地調査に来日し滞在先選定の最中であった。彼の側では同月18 日の調査日誌に、第一銀行頭取、親米家で最近他界した偉人の孫、アチック・ミューゼアムに民具(rural objects)を収集している渋沢子爵を訪ねたと書き留めている。1930 年代中頃、渋沢の主宰するアチック・ミューゼアムには同人や研究者が集い、彼らの資料整理や調査旅行からつぎつぎと報告書が生まれていた。戦時体制が布かれる直前、アチックの全盛期は、民間の国際交流の最盛期でもあった。では、内外の視線が重なったのは、なぜ日本農村であったのだろうか。すなわち、米国の人類学はどのような関心から日本農村研究に導かれたのか。日本の村落研究者は、どのような目的を念頭に農村生活を記録していったのか。そして、ここに交差した視線はその後どのような経路を辿ったのか。
この交差をみるのに看過できない視点のひとつは、学術の応用という意味での「実践」であろう。エンブリーに渋沢を紹介したのは農業経済学者の那須皓であり、同時代的な関心は農政学的な実践であった。ただし、その後の歴史の流れは、農村研究の経験を移民事業に活かしたり、農村研究で得た知見を戦時情報に変えたりといった異なる実践の文脈を用意することになった。さらに、近年では、往時の農村研究が残した記録が地域の文化資源になるという実践の文脈もあらわれている。
このような視点から企画された2019 年の常民文化研究講座・国際研究フォーラムは、「交差する日本農村研究—アチック・ミューゼアムとジョン・エンブリー」と題し、アチックとエンブリーそれぞれの研究に通暁した講演者が集い、日本農村研究をめぐる、内外の視線の交差、学術と実践の交差について理解を深める機会となった。
第一部「内からみた日本農村—アチック同人を中心に」では、まず、全京秀(ソウル大学名誉教授・日本常民文化研究所客員研究員)氏が「アチック・ミューゼアムの村落報告書とシカゴ学派のコミュニティ・スタディの対比」と題し、吉田三郎による男鹿寒風山麓の詳細な生活記録の再評価をおこなった。全氏によれば、コミュニティに定位した吉田の視点と、実質的に長期の参与観察に等しい吉田の手法は、同時代の人類学者の民族誌研究に比肩すべきものである。全氏は、そのようなアチックの作品群は、文字社会ゆえに歴史的な次元をもったコミュニティ研究であり、人類学の民族誌研究のなかでは異彩を放つという理解に立って、アチックミューゼアム彙報の再評価を強く訴えた。
つぎに、三須田善暢(岩手県立大学盛岡短期大学部)氏が「有賀喜左衛門における海外研究者の摂取について—遺稿類から」と題し、有賀によるドイツ社会学諸理論への批判を丁寧に跡づけた。有賀はこの批判をとおして、「民族文化圏」や類型の相互転換を組み入れた自らの理論の優位性を確認していた。三須田氏の考察は、これまでの有賀論が看過していたドイツ社会学からの影響に光を当てるものであった。論証の根拠となった資料は、同氏が現在進めている有賀の遺稿の整理事業によって発掘された原稿であり、未公開資料の活用という意味でも貴重な発表であった。
午前中の最後の発表は、アラン・クリスティ(University of California, Santa Cruz)氏による「ティームワークのハーモニアス・デヴェロープメントという理想—アチック・ミューゼアムにおける共同研究を考えて」であった。同氏は自身の研究歴を振り返りつつ、網野善彦との出会いを通じて知ったアチックの常民文化研究と、そのモットーとされるチームワークによる調査研究について述
べ、この精神にならって米国の大学と沖縄を結んでおこなっている自身の教育実践を紹介した。
つづいて、以上の諸氏の各発表について、加藤幸治(武蔵野美術大学)氏からアチック史への深
い蘊蓄にもとづいた丁寧なコメントがあった。とりわけ、アチックとシカゴ学派に研究スタイルの
「親和性」を指摘した整理は、午後の発表への格好の橋渡しとなった。
第二部「外からみた日本農村—ジョン・エンブリーを中心に」では、まず、神谷智昭(琉球大学)氏が「写真と解説—エンブリーの見た須恵村の復元とその現代的意義」と題し、エンブリーが残した未発表写真を紹介した。それらは、すでに断絶してしまった知識や記憶を繫いで往時の生活への理解を深化させる。神谷氏は、このような写真記録が現行の民俗調査にきわめて有効な道具となることも、具体例にそくして説得的に示した。さらに、エンブリー写真は、同氏が支援している地域の記憶継承事業や世代間交流事業においても無二の資源となっている。
つぎの発表は、田中一彦(ジャーナリスト・元西日本新聞社)氏による「エンブリー夫妻の日米戦争と須恵村の協同」であった。同氏は、3 年にわたる須恵での参与観察にもとづいて、『須恵村』に描かれたハジアイ(協同)やカッタリ(労働交換)が郷土生活の美点として現住者にも意識的に継承されていること、土着の民主主義の要であったヌシドウリ(仲介者)や講のような組織も、やはり今日まで存続していることを指摘した。これはエンブリーの近代化論に修正を求めたというよりは、むしろ、地方自治の在り方や生活の真の豊かさをめぐる今日的な問いへの提言であった。同氏はまた、『須恵村』後のエンブリーの仕事にも注意をうながし、須恵村の協同に感銘を受けたエンブリーは、戦中戦後の政府関係の仕事のなかで協同を支える制度の重要性を説いていたと指摘した。
つづいて、デイビット・プライス(St. Martinʼs University)氏が、「John Embree in the Cold War(冷戦のなかのエンブリー)」と題し、応用人類学に懐疑を深める晩年のエンブリーについて論じた。日系人収容所管理や民事将校の養成に携わったエンブリーは、戦後も東南アジアの文化交流担当者として米国政府機関で働いた。しかし、植民地解放運動が冷戦対立に転じるなかで、米国の文化交流事業が孕む倫理的問題への批判を強めていくことになった。プライス氏が議論の土台にしたのは、連邦捜査局によるエンブリーの身元調査報告であった。学術が実践的価値を求められるときに、学術専門家にはどのような対応がありうるのかという論点とともに、機密文書の保存と公開という点でも、直近の日本の状況への反省をうながされた発表であった。
小休止をはさんだ後、桑山敬己(北海道大学名誉教授・関西学院大学)氏が「文化人類学的日本研究のなかの『須恵村』」と題し、米国の日本研究という文脈でエンブリー作品を論じた。日本では個人でなくイエが社会の単位であるというエンブリーの観察は、彼自身の戦中の仕事や、ルース・ベネディクトの借用により、集団主義の日本という見方を普及させたが、桑山氏によれば、じつはパーシバル・ローウェルや新渡戸稲造がすでに指摘していたことであり、エンブリーの観察はこのような先行研究の延長として理解すべきものである。一方で、エンブリーのオリジナリティは、行政村と集落を区別し両者の関係に着目した点にあり、この視点ゆえに彼は近代日本農村のダイナミズムを描くことができた。しかし、この視点は後続の研究に継承されず、米国人類学による日本研究の短所となってしまったという。桑山氏の考察は説得的であり、エンブリーの研究史上の位置が一段と明確に示された。
最後の発表は、内海孝(東京外国語大学名誉教授)氏の「エンブリーのハワイ島コナ日本人異文化接触論」であった。同氏は角田柳作の研究を通して出会ったエラ(エンブリー妻)、ミワ・カイ(須恵村資料翻訳者)や佐野寿夫(調査通訳助手)などの関係者について紹介したのち、ハワイの日本人学校における角田の教育理念と関連づけて、エンブリーによるハワイ日系移民地区の研究を論じた。個々の人物を追ってその人生の舞台となった土地を巡り、現地で集めた豊富な情報が紹介された印象的な報告であった。
以上の午後の発表については、米国史の飯島真里子(上智大学)氏がコメントに立ち、個々の発表への質問とは別に、日本研究者としてのエンブリーに終始した議論への違和感を表明したのは予想外であった。しかし、彼の研究対象であった人々の移動や、研究者としての彼自身の移動、そして研究対象が推移するとき先行する研究から後続の研究への影響にも注意すべきであるという指摘は、本企画の建設的批判として真摯に受け止める必要を感じた。
本年の常民文化研究講座は、共同研究「日本常民文化研究所所蔵資料からみるフィールド・サイエンスの史的展開」のメンバーが企画し、共同研究の関係者を含む93 人の来場があった。会場では、加藤、飯島両氏のコメントを受けて発表者それぞれから応答があったが、その後、場所を移して他の来場者とも活発な質疑応答が続いた。
なお、当日の会場には、エンブリー撮影の須恵村の写真と、日本常民文化研究所所蔵の男鹿のアチック写真がそれぞれ12 葉ずつA1 サイズで展示され、発表の合間には、これらを熱心に見入る多くの来場者の姿がみられた。このエンブリー写真は、神谷氏が整理を進めているあさぎり町所蔵の写真資料の一部であり、展示を許可してくださった同町の好意に深謝申上げる。
(文責:泉水英計)