神奈川大学日本常民文化研究所

研究所紹介

渋沢敬三とアチック・ミューゼアム



経済人である渋沢敬三

新潟県湯之谷村にて(1936年)
(目録番号:ア40-8)

 渋沢敬三は、1896(明治29)年、渋沢栄一の孫として東京に生まれました。東京帝国大学経済学部を卒業後、横浜正金銀行に入行、その後第一銀行に入り、取締役、副頭取を歴任し、1942(昭和17)年に請われて日本銀行副総裁に転出、1944(昭和19)年には総裁に昇任しました。
 第二次世界大戦後は、1945(昭和20)年10月に幣原喜重郎内閣の大蔵大臣となり、預金封鎖、新円切り替え、財産税導入など混乱した戦後経済の処理にあたります。その後公職追放を経て、1953(昭和28)年に国際電信電話株式会社の初代社長に就任し、その後も金融制度調査会の会長等、多くの要職をつとめます。
 以上のように、「日本近代資本主義の父」とよばれる渋沢栄一の後継者としていくつもの会社役員を兼任し、日銀総裁、大蔵大臣までつとめた渋沢敬三は、それだけで日本の経済界に多くの貢献をした重要な人物として記憶されています。

動物学者を諦め横浜正金銀行入行へ

1933年に竣工したアチック・ミューゼアム新館
(目録番号:河岡1-6-15)

 ところが渋沢には、もう一つの顔がありました。
 東京・深川の渋沢邸には潮入の池があり、潮の干満に応じてさまざまな魚が入ってきました。敬三はそれを飽かずに眺めているような子供だったといいます。また近所の子供達を集めて子供会「腕白倶楽部」を組織、「腕白雑誌」なる同人誌も創刊し、そのなかで冒険小説や、昆虫を図入りで解説しています。また修学旅行にあたっても、その土地の高度、温度などのデータを盛り込んだ修学旅行記をものしています。
 中学時代から動物学者を志し、仙台・二高の農科を志望する敬三に対し、祖父・栄一が羽織袴の正装で敬三に対座し頭を床にすりつけんばかりにして農科を諦めるよう嘆願したという逸話がのこっています。結局英法科を受検し合格、二高卒業後に東京帝国大学法科経済科に入学した敬三は、名実ともに栄一の跡取りとして卒業後横浜正金銀行に入行することになります。

「アチックミューゼアムソサエティ」の創設

民具が並ぶアチック・ミューゼアム内部
(目録番号:河岡1-6-14)
渋沢が実施した最初の共同調査、薩南・十島での
記念撮影(1934年)(目録番号:ア9-104)

 ちょうどそのころ、敬三は二高の同級生らと語らい、東京・三田綱町の渋沢邸にある物置小屋の屋根裏部屋に動植物の標本、化石などを集め、整理、研究などを行う「アチックミューゼアムソサエティ」をたちあげます。この会合は敬三が正金銀行ロンドン支店へ赴任したことで一時中断しますが、帰国後の1925(大正14)年再開され、名称を「アチック・ミューゼアム」と改め、メンバー共同で郷土玩具の研究を開始します。
 その後のアチックの活動は大きく展開していきますが、敬三は、アチックでの様々な研究活動の企画に関して、スケールの大きな指導者でした。
 アチックは敬三のポケットマネーで運営されていました。もちろん敬三はその多くの肩書きに伴う多くの収入があったわけですが、アチックの規模が拡大するとともに、多くの研究員の給与と調査研究費用、多数の刊行物の出版費用など莫大な金額が注ぎこまれました。この姿は学問・研究の発展へ限りない支援をすることで、動物学者への道を諦めざるを得なかった心を癒したともみえます。
 ロンドン滞在中にヨーロッパの多くの民族博物館を見分した敬三は、当初より博物館に対する強い想いをいだいていました。郷土玩具から民具全般へと収集の対象をひろげていたアチックには、多くの収蔵品が集まりました。これらの収蔵品は、1939(昭和14)年に日本民族学会付属博物館に移管され、1977(昭和52)年に完成した国立民族学博物館に収納されることになりました。

「ハーモニアスデヴェロープメント」の精神

新潟県・糸魚川での塩田調査(1935年)
(目録番号:河岡1-29-12-1)

 そのような学問への支援者である一方、敬三自身も『日本釣魚技術史小考』『日本魚名集覧』など特に漁業史の分野で研究成果を残しています。銀行重役としての激務をこなしながら、毎日午前6時半から8時半まで第一銀行出勤前の時間を研究にあてたといいます。
 敬三は、アチックを立ち上げた時も、またその後も、志を同じくする人々との共同研究に大きな意義を見出しています。「人格的に平等にして而も職業に専攻に性格に相異つた人々の力の総和が数学的以上の価値を示す喜びを皆で共に味ひ度い。ティームワークのハーモニアスデヴェロープメントだ。自分の待望は実に是れであつた。」と、敬三は書いています。また、『豆州内浦漁民史料』の前文で「論文を書くのではない。資料を学界に提供するのである。山から鉱石を掘りだし、選鉱して品位を高め粗銅とするのがわれわれの目的であって、(中略)原文書を整理して他日学者の用に供し得る形にすることがわれわれの目的なのである」とも述べています。敬三のこのような基本的な考え方が、民間の研究所であるアチック・ミューゼアムを90年以上も継続させている原動力なのではないでしょうか。

 その後、多くの同人や研究員により民具研究、地域研究、水産史研究などの分野も推し進められ、現在では本研究所にて活動が継続され、2021年には、創立100周年を迎えました。

【さらに詳しく知りたい人のために】

  • 『日本民俗文化大系3・澁澤敬三』(宮本常一編 1978年 講談社)
  • 『澁澤敬三著作集』1~5(1992年 平凡社)
  • 『旅する巨人』(佐野眞一 1996年 文芸春秋社)
  • 『澁澤家三代』(佐野眞一 1998年 文芸春秋社)
  • 『屋根裏の博物館-実業家渋沢敬三が育てた民の学問』
    (神奈川大学日本常民文化研究所・横浜市歴史博物館 2002年 横浜市歴史博物館)
  • 『渋沢敬三と今和次郎—博物館的想像力の近代』(丸山泰明 2013年 青弓社)
  • 『屋根裏部屋の博物館—ATTIC MUSEUM』(国立民族学博物館 2013年)
  • 『歴史の立会人—昭和史の中の渋沢敬三』
    (由井常彦・武田晴人編 2015年 日本経済評論社)
  • 『渋沢敬三と竜門社—「伝記資料編纂所」と「博物館準備室」の日々』
    (大谷明史 2015年 勉誠出版)
  • 『渋沢敬三—小さき民へのまなざし』(川島秀一編 2018年 アーツアンドクラフツ)
  • 『渋沢敬三とアチック・ミューゼアム—知の共鳴が創り上げた人文学の理想郷』
    (加藤幸治 2020年 勉誠出版)