神奈川大学日本常民文化研究所

刊行物

アチック・ミューゼアムの出版活動

渋沢敬三の目論見

  • 岩倉一郎・張甲特送別会の写真。中央に渋沢敬三、後列右から3人目に編集担当・高木一夫が写る。(1935 年、於アチック・ミューゼアム。拵嘉一郎氏所蔵神奈川大学常民研保管写真)
  • 基本的な本の装幀は、高木の証言の通り「装幀は同じ様式の仮製」である。常民研に残された本の中には帙や函が付属しているものもある。

 アチック・ミューゼアムは、常民の生活・文化の全体を研究するために、専門を異にする研究者による共同調査の実施、調査の記録のための写真や動画の活用、民具というモノ資料への着目、生活記録としての古文書の活用など、さまざまな手法の試みや資料収集を行い、それらを広く公開するために出版活動にも力を注いでいた。
 そもそもアチック・ミューゼアムを主宰した渋沢敬三は、アチックでの出版についてどのような考えを持っていたのであろうか。
 1934年、当時長野県川島村の小学校教員であった竹内利美が児童に村の生活事象を調べさせガリ版刷りでまとめた冊子を渋沢に送ったところ、この冊子がアチックで出版するのにふさわしいと、4月19日竹内に手紙を送る(注1)。手紙には「(前略)先日は郷土誌を有難く拝受しました。実によいものが出来ました。すっかり感服して面白く拝見しました。(略)此の様な研究法が真に日本再認識の出発点だと思います。もし貴兄が御賛成だったらこの郷土誌をアティックで少し出版して見たいと思いますがどうでしょうか。アティックではウブな資料(論文はやらないつもり)を出版する計画で、今二、三とりかかって居ますが、その彙報の一つにしたいと思います」とあった。
 この「アティックではウブな資料(論文はやらないつもり)を出版する計画」という一文に、渋沢の出版に対する模索の方向性をみることができる。そして、3年後に出版した『豆州内浦漁民史料』「本書成立の由来」では、「論文を書くのではない、資料を学界に提供するのである」(注2)ときっぱりとした表現となり、渋沢の出版に対する確信を読み取ることができる。
 たしかに実際に出版された刊行物をみると、1934年11月『小学生の調べたる上伊那川島村郷土誌』を皮切りに、地域調査報告や研究旅行報告、近世古記録の校訂編纂・抜粋など、約15年間で100冊近くの本を出版しているが、これらのなかで論文集といえるものは『澁澤漁業史研究室報告第一輯』(1941年)および『同 第二輯』(1942年)ぐらいであろうか。
 さらに、このようなアチック・ミューゼアムの出版活動については、その戦前期の出版のほとんどに携わった高木一夫の次のような証言がある(注3)。
 「この出版は特殊な出版で、渋澤先生は本屋で出さない本を出すのだとよく言っておられたが、そういう性質のものだったから、本にしても売れるというものではなかったし、又売ろうともしなかった。発行部数は三百位が限度であったが、その五十か百を著者や関係者に配ると、後は土蔵に入れておくのであった。本の欲しい人は、どんな事をしても探すものだから、それでいいという先生のお考えであった」。「定価は紙代、印刷費、製本費の合計を部数で割ったものが付けてある。(略)直接の制作費のみを部数で割って定価とした。従って当時としても非常に安いものであった」。
「装幀は同じ様式の仮製であるが、印刷は頗る贅沢であった。写真も豊富に入っているし、図表なぞも、その当時としては出来る限りの贅沢をしていると思う」。
 このような渋沢の考えのもとアチック・ミューゼアムでは、「アチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)彙報」、「アチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)ノート」、そのほか『文献索隠』シリーズや『日本国宝神仏像便覧』『蒐集物目安』『祭魚洞文庫図書目録』など、1934年から1945年のあいだに、毎年10冊前後を刊行し続けた(1944、45年は各1冊の刊行)。

アチックの出版

 アチック・ミューゼアムにおいて漁業・漁村民俗、船・漁網などの技術誌に業績をのこし、戦後に財団法人日本常民文化研究所理事長もつとめた桜田勝徳は、これら彙報・ノートを次の四つに分類している(注4)。
 (1)アチックに席をもって研究した人の研究成果報告、研究調査旅行報告書など
 (2)アチック研究者が近世古記録類を整理、校訂編纂、抜粋し、場合により沿革や現状調査を付
加したもの
 (3)アチックに在籍しなかった人々の研究調査
 (4)アチックで質問書を作成して各地に送って回答を求めたアチックと大勢の合作
 この桜田の分類は、執筆者の立場や方法による分類であるが、これを内容に即して考えると以下のように分けることも出来よう。
 ⅰ 民具に関するもの
 ⅱ 漁業・漁村・漁民に関するもの
 ⅲ 農山漁民自らの生活記録
 ⅳ 近世古記録の生活・生産記録の翻刻・校訂
 ⅴ 各地の生活・生産の記録
 ⅵ 索引
 このように分類すると、アチックの出版は、独自の研究視点や方法論をもとに計画されていたことも見えてくる。そこで本展では刊行物を上記のテーマごとに分類し、以下のように展示を行った。

ⅰ 民具に関する出版物

 渋沢がアチック・ミューゼアムとして研究対象にしたのは当初は郷土玩具であったが、その後、早川孝太郎等との出会いにより、人々の暮らしを明らかにするための物質資料としての民具に研究方向を定めていく。研究を進めていく中で民具の概念や調査研究の方法論も深化していった。


ⅱ 漁業・漁村・漁民に関する出版物

 1932年、36歳の渋沢は体調を崩し、半年間、伊豆内浦三津で療養生活をおくる。釣り好きの渋沢は、地元の漁師“伝ちゃん”と親しくなる中で、三津の旧家・大川四郎左衛門家の存在を知ることになる。その大川家に大量の漁業関係の古文書があることを知った渋沢は、主治医や見舞客らまで動員して古文書の整理にあたったという。その後アチックで本格的な整理を進め『豆州内浦漁民史料』として刊行する。この大川家文書との出会いを契機として、アチック・ミューゼアムにおいて各地の漁業・漁村・漁民を対象とした研究が開始された。

ⅲ 農山漁民自らの生活記録

 渋沢は「農民、漁民の体験的記録、或いは現実的な主体的経験の記録」「事実に即した人間の汗の記録」(注5)を重視し、アチックでは農民や漁民が自らの経験からのみ表現できる記録の出版を行った(注6)。


ⅳ 近世の生活・生産記録の翻刻・校訂

 アチックでは、生産や生活文化の研究のために積極的に文字資料を活用した。漁業のほか、農業の作付け等に関する記録、櫨蝋製造や狩猟の作法に至るまで、江戸時代に記された生活・生産記録の翻刻を多数出版した。


ⅴ 各地の生活・生産の記録

 アチックで庶民の生活文化の研究を進めながら渋沢敬三は、その生活文化の「分化前の状態そのものを対象として研究する学問なり方法なりがありはせぬか」(注7)という思いを常に抱いていた。そのことのあらわれか、特定の地域の生活を詳細に記述したモノグラフや、特定の人物から描いた地域生活の全体像を活字化し、数多く出版した。

1934 年に出版された竹内利美編著『小学生の調べたる上伊那川島村郷土誌』の定価は1円80銭であった。本文は2段組95ページ、折込み地図に加え、コート紙の図版が42ページ、その中にはカラー図版も4ページ含まれている。高木が「印刷は頗る贅沢であった。写真も豊富に入っているし、図表なぞも、その当時としては出来る限りの贅沢をしていると思う」と回想していることが実感できる。

ⅵ 索引

 アチックのあまり目立たない活動の一つに索引の作成がある。1935年から2年ほどかけて、五十沢二郎が主となり各種文献や地形図等から採録した語を『文献索隠』として出版した(「索隠」は索引のことで、五十沢の造語。INDEXのこと(注8))。渋沢は「文献索隠が学者を益する所大ならんとするのも近日のことでありませう」(注9)と述べ、アチックの活動や出版物が、研究の素材やツールの提供を企図していたことがわかる(注10)。

 以上、内容に即し出版物を分類する試みを行った。最後に渋沢敬三の著作を紹介する。

『彙報』や『ノート』が菊判であったのに対し、『文献索隠』は四六倍版(B5サイズ)と大きく、1ページを5段組としていた(写真は『索隠一茶俳句集』の本文)。また第一年度分のみ分冊刊行されたものを合冊しているが、第二年度分からは分冊のみとなった。

ⅶ 渋沢敬三の著作

 渋沢は日本における複雑な魚名の実態を明らかにするため、魚名方言の収集・整理を自らの研究
テーマとし、銀行取締役という激務の傍ら時間をつくり、古文献からの魚名の抽出、魚方言の実態
確認などを行い『日本魚名集覧』全3冊として上梓した。その執筆は自身が「魚名の集成は筆者自
ら全部採録したが殆んど私見を加へず原本に拠り、且つその引用書目を全て番号を付して明かにし
た」(注11)と記すように、「資料を学界に提供する」という態度が貫かれている。

 なお、すべての刊行物タイトルを列記できなかったため、神奈川大学日本常民文化研究所Webサイトの「アチック・財団常民の刊行物」ページをご参照いただきたい。

【注】
(1) 竹内利美「『川島村郷土誌』の頃」(『日本常民生活資料叢書月報』2、三一書房、1972年)に引用された、1934年4月19日竹内利美宛渋沢敬三の手紙より再引用。
(2) 渋沢敬三「本書成立の由来」(『豆州内浦漁民史料 上巻』アチック ミューゼアム、1937年)
(3) 高木一夫「アチックの出版」『日本常民生活資料叢書月報』1、三一書房、1972年)
(4) 桜田勝徳「アチックミューゼアムの刊行物」(『渋沢敬三 上』、渋沢敬三伝記編纂刊行会、1979年)
(5) 渋沢敬三「所感─昭和十六年十一月二日社会経済史学会第十一回大会にて」(『渋沢敬三著作集第1巻』平凡社、1992年)
(6)加藤幸治はこれらを「自民俗誌」として位置づけている(「自民俗誌の可能性─農漁民の覚醒」『日本民俗学会第73回年会研究発表要旨集』2021年)。
(7) 渋沢敬三「随想二つ三つ」(『アチックマンスリー。特輯号19』アチックミューゼアム、1936年12月)
(8) 市川信次「昭和十年頃のアチック・ミューゼアム」(日本常民生活資料叢書月報17 三一書房 1973年)
(9)「新年打合せ会」『アチックマンスリー。第二十号』(アチックミューゼアム、1937年1月)記事より引用。
(10)櫻田勝徳「アチックミューゼアムの活動(一)Ⅲ文献索引のこと」(『澁澤敬三 上』前掲注(4))にも文献索隠が刊行される経緯が詳しく記されている。
(11)渋沢敬三「小序」(『日本魚名集覧 第一部』アチック・ミューゼアム、1942年)

(文責:窪田涼子)

※本稿は『神奈川大学日本常民文化研究所 年報2020』(2022)より抜粋して転載したものです。