神奈川大学日本常民文化研究所

講座と展示

過去の展示

神奈川大学展示ホール

 日本常民文化研究所は「海」の視点から日本文化をとらえる重要性に早くから着目してきました。
 神奈川大学日本常民文化研究所展示室では、本研究所の活動の歴史と今後の展望をパネルで紹介するとともに、収蔵資料を展示しています。
 企画展示室「和船・神奈川湊・横浜港」では、横浜と和船の関わりや弁才船を中心とした和船の特徴を、船舶模型・船大工道具などの資料とパネルで紹介します。

神奈川大学 日本常民文化研究所 展示室
(2014年3月25日~2020年4月7日)

 日本常民文化研究所は1921年渋沢敬三により創設されて以来、民具の収集・分類・古文書の収集・整理、漁業史研究など、日本常民社会の多様な領域を対象とし、他に類を見ない独創的業績を上げてきました。
 1982年大学の付属研究所として再出発した後も、伝統を受け継ぎつつ学際的・国際的研究センターとして一層の発展を見せています。この展示室ではその先駆的活動の歴史と今後の展望を探ります。

 展示は「渋沢敬三とアチックミューゼアム」、「アチックミューゼアムに集う人々」、「アチックミューゼアムの活動」、「アチックミューゼアムから財団法人日本常民文化研究所へ」、「神奈川大学日本常民文化研究所としての再生」、「歴史民俗資料学研究科の創設」「学際的・国際的なひろがり」のコーナーへと進みます。

 

収蔵資料ケース展示

 この展示室の展示ケースでは、研究所の収蔵資料を紹介しています。展示替えは前期・後期の年2回行っています。

収蔵資料展「アチックの出版1934~1945」
(2020年4月1日~4月7日)

 本展は、2020年4月1日から12月いっぱいを会期とする予定であったが、同年4月8日からの新型コロナウイルスによる大学構内入構禁止措置により、事実上7日間の会期となり、閲覧者はほぼない状況であった。しかしながらここに企画意図などを記し、記録としたい。

写真/竹内利美編『小学生の調べたる上伊那川島村郷土史』(アチック・ミューゼアム彙報第二)1934年刊
本体は簡易製本であるが帙入りである。全97頁の本文ページの間にアート紙の図版が69枚挿入されており、そのうち4頁はカラー刷りである。図版もふんだんに使用されている。

 本展は収蔵資料展「アチックの出版1934~1945」と題し、戦前期のアチック・ミューゼアムで出版された書籍を展示した。
 アチック・ミューゼアムは、常民の生活・文化の全体を研究するために、専門を異にする研究者による共同調査の実施、調査の記録のための写真や動画の活用、民具というモノ資料への着目、生活記録としての古文書の活用など、さまざまな手法の試みや資料収集を行った。
 そのような活動や収集の報告のため、出版活動にも力を注いでいた。「アティックではウブな資料(論文はやらないつもり)を出版する計画で、今二、三とりかかって居ます」(注1)という渋沢敬三の言葉どおり、とくに戦前期は、1934年『小学生の調べたる上伊那川島村郷土史』を皮切りに、地域調査報告や研究旅行報告、近世古記録の校訂編纂・抜粋など、約15年間で100冊近くの本を出版した。
 アチック・ミューゼアムの出版活動は、本屋で出さない本を出す、本の欲しい人はどんなことをしても探し出すものだ、という渋沢の考えのもと、積極的に売ることはせず、300冊前後を発行部数として直接の制作費を部数で割って定価としたという。当時としても安価で、装丁は簡素でしたが写真・図版・表など内容にはお金をかけたつくりだった(注2)。
本展では刊行物を以下のテーマごとに分類し展示した。

●民具に関する出版物

 渋沢敬三がアチック・ミューゼアムとして初めて研究対象にしたのは玩具研究であったが、その後、早川孝太郎等との出会いにより、人々の暮らしを明らかにするための物質資料としての民具研究に方向を定めていく。

・所謂足半(あしなか)に就て アチックミューゼアム編 1936
・民具問答集 アチックミューゼアム編 1937
・民具蒐集調査要目 アチックミューゼアム編 1936
・輪累(わかんじき) 高橋文太郎 1942

●漁業・漁村・漁民に関する出版物

 1932年、36歳の渋沢敬三は体調を崩し、半年間、伊豆内浦三津で療養生活をおくる。釣りが大好きだった敬三は、地元の漁師“伝ちゃん”と親しくなる中で、三津の旧家・大川四郎左衛門家の存在を知ることになる。その大川家に大量の漁業関係の古文書があることを知った敬三は、主治医や見舞客らまで動員して古文書の整理にあたったという。その後アチックで本格的な整理を進め『豆州内浦漁民史料』として刊行する。この大川家文書との出会いを契機として、アチック・ミューゼアムにおいて各地の漁業・漁村・漁民を対象とした研究が開始された。

・明治前期を中心とする内房北部の漁業と漁村経済 山口和雄 1935
・隠岐島前に於ける糸満漁夫の聞書 隠岐調査報告 桜田勝徳 1935
・伊予日振島に於ける旧漁業聞書 桜田勝徳 1936
・土佐鰹漁業聞書 伊豆川浅吉 1936
・九十九里旧地曳網漁業 山口和雄 1937 ほか

●農山漁民自らの生活記録

 渋沢敬三は、「農民、漁民の体験的記録、或いは現実的な主体的経験の記録」「事実に即した人間の汗の記録」(注3)を重視し、アチックでは農民や漁民が自らの経験からのみ表現できる記録の出版を行った。

・男鹿寒風山麓農民手記 吉田三郎 1935
・男鹿寒風山麓農民日録 吉田三郎 1938
・安芸三津漁民手記 進藤松司 1937
・喜界島農家食事日誌 拵嘉一郎 1938

●江戸時代の生活・生産記録の翻刻

 アチック・ミューゼアムでは、生産や生活文化の研究のために積極的に文字資料を活用した。漁業のほか、農業の作付け等に関する記録、櫨蝋製造や狩猟の作法に至るまで、江戸時代に記された生活・生産記録の翻刻を多数出版した。

・愛知県北設楽郡下津具村村松家作物覚帳 早川孝太郎校註 1936
・木実方秘伝書(雲藩櫨樹植林製蝋手記) 稲塚和右衛門 1936
・新潟県北魚沼郡湯之谷村 星家所蔵種子帳・稲刈帳 星吉右衛門 1939
・喜界島阿伝村立帳 アチックミューゼアム編 1940  ほか

●各地の生活・生産の記録

 アチックで庶民の生活文化の研究を進めながら渋沢敬三は、その生活文化の「分化前の状態そのものを対象として研究する学問なり方法なりがありはせぬか」(注4)という思いを常に抱いていた。そのことの表れか、特定の地域の生活を詳細に記述したモノグラフや、特定の人物から描いた地域生活の全体像を活字化し、数多く出版した。

・小学生の調べたる上伊那川島村郷土史 竹内利美 1934
・武蔵保谷郷土資料 高橋文太郎 1935
・新島採訪録 藤木喜久麿 1936
・アイヌ民俗研究資料 知里真志保 1936-1937
・秋田マタギ資料 高橋文太郎 1937 ほか

●索引

 アチック・ミューゼアムのあまり著名でない活動の一つに索引の作成がある。1935年から2年ほどかけて、五十沢二郎が主となり各種文献や地形図等から採録した語を『文献索隠』として出版した(「索隠」は索引のことで、五十沢の造語。INDEXのこと(注5))。渋沢は「文献索隠が学者を益する所大ならんとするのも近日のことでありませう」(注6)と述べ、アチックの活動や出版物が、研究の素材やツールの提供を企図していたことがわかる。

  1. 文献索隠第一年度分 アチックミューゼアム編 1936 世間胸算用・東海道膝栗毛・浮世風呂・たけくらべ・一茶俳句集・蘭学事始・ 農具便利論・農具揃・坑場法律・漁村維持法・日本経済古典綜覧・雑誌温古の栞総目録・ 人類学雑誌総目録・東洋学芸雑誌総目録・日本地名索引 5万分1地形図に拠る (村上・新潟・相川・長岡・高田・長野・甲府・静岡・神子元島・珠洲崎・富山・伊良湖岬)
  2. 文献索隠 第二年度分  アチックミューゼアム編 1936 日本永代蔵・浮世床・改訂日本経済古典綜覧・北越雪譜・百姓伝記・地方凡例録・ 日本地名索引(高山・飯田・豊橋・豆南諸島・薩南諸島)
  3. 文献索隠第三年度分 アチックミューゼアム編 1937
    叢書採輯日本古典書目索引・日本地名索引(日光・宇都宮)

●渋沢敬三の著作

 渋沢敬三は、日本における複雑な魚名の実態を明らかにするため、魚の方言の収集・整理を自らの研究テーマとし、銀行取締役という激務の傍ら時間をつくり、古文献からの魚名の抽出、魚方言の実態確認などを行い『日本魚名集覧』全3冊として上梓した。

・日本魚名集覧 澁澤敬三 1942~1944

 なお、アチック・ミューゼアムの刊行物全体については、本Webサイトの「アチック・財団常民の刊行物」ページをご覧下さい。

 【注】
(1)竹内利美「『川島村郷土誌』の頃」(日本常民生活資料叢書月報2 三一書房 1972年)に引用された、1934年4月19日竹内利美宛渋沢敬三の手紙より再引用。
(2)高木一夫「アチックの出版」 日本常民生活資料叢書月報1 三一書房 1972年
(3)渋沢敬三「所感—昭和十六年十一月二日社会経済史学会第十一回大会にて」(『渋沢敬三著作集第1巻』平凡社、1992年)
(4)渋沢敬三「随想二つ三つ」(『アチックマンスリー。特輯号19』アチックミューゼアム、1936年12月)
(5)市川信次「昭和十年頃のアチック・ミューゼアム」 日本常民生活資料叢書月報17 三一書房 1973年
(6)「新年打合せ会」『アチックマンスリー。第二十号』(アチックミューゼアム、1937年1月)記事より引用。

企画展示室 企画展「和船・神奈川湊・横浜港」
(2019年3月26日~2020年4月7日)

展示パネルの大判写真の魅力をご覧ください

パネル展示コーナー
右から鎌倉時代の廻船、菱垣廻船、中国船(各10分の1模型)
右から鎌倉時代の廻船、菱垣廻船、中国船(各10分の1模型)
右から鎌倉時代の廻船、菱垣廻船、中国船(各10分の1模型)

 2019年3月に企画展示室の一部展示替を行いました。企画展示室はこれまで、和船の構造と帆走技術を中心に展示してきましたが、入り口部分の展示パネルを和船の帆走技術から、横浜と和船の関わりに変更しました。展示タイトルも「和船・神奈川湊・横浜港」とし、近世の神奈川湊と近代以降の横浜港と船を取り上げました。
 横浜港は1859(安政6)年に開港し、日本を代表する国際港湾都市に発展しました。しかし、この「開港」以前から神奈川湊が重要な湊として機能していました。特に江戸時代初期には江戸に送られる物資の多くは、神奈川湊で小型船に積み替えられていました。大型船の停泊地が品川に移ってからも、神奈川湊は日本各地をむすぶ湊として機能しました。
 展示パネルでは近世の神奈川湊、ペーリー提督の上陸から横浜開港、国際貿易港として発展する横浜港の様子を、写真を中心に紹介しています。展示替に当たっては、展示パネルに横浜開港資料館、神奈川大学図書館の所蔵資料を利用させていただいています。印刷物などで目にする機会のある資料ですが、大きく引き延ばされた写真は、迫力満点で細部までじっくり観察すると、これまでとは違った「気づき」が期待できます。
 一例をあげると、港湾荷役に活躍する艀(はしけ)ですが、明治時代中頃までは和船構造の艀が使われていますが、明治時代の末頃には洋式構造の艀に変わっています。また、写真パネルに合わせて、一部模型の入れ替えも行いました。菱垣廻船や中国船、船大工と和船建造など、従来の展示と合わせてご観覧下さい。
 また、地下1階ロビーには近藤友一郎氏が制作した100石(15トン)積弁才船の実物大部分復元模型が展示されています。

  • 企画展「和船・神奈川湊・横浜港」会場入口
  • パネル展示コーナー
    パネル展示コーナー
    横浜港「象の鼻」の艀(はしけ)和船構造から洋式船構造に変化
  • パネルは川・運河に係留される艀と五大力船
    模型左:神奈川県の打瀬船・右:五大力船(製作:近藤友一郎氏)
  • 左から中国船、菱垣廻船、鎌倉時代の廻船(各10分の1模型)
    左から中国船、菱垣廻船、鎌倉時代の廻船(各10分の1模型)
    左から中国船、菱垣廻船、鎌倉時代の廻船
    (各10分の1模型)
  • 100石(約15トン)積の弁才船実物大模型
    100石(約15トン)積の弁才船実物大模型
    100石(約15トン)積の弁才船実物大模型
  • 江戸時代の設計図をもとに帆柱部分を実物大で復元
    江戸時代の設計図をもとに帆柱部分を実物大で復元
    江戸時代の設計図をもとに帆柱部分を実物大で復元

近藤友一郎氏

 昭和3年(1928)、焼津(静岡県)にある近藤造船所、二代目船大工の父・佐吉の長男として誕生した。15歳で焼津造船所に船大工見習いとして入社、29歳で独立し近藤造船所を再興。静岡県相良町大江八幡宮の船祭で見た弁財船の模型の精巧な造船手法に感動し、伝統的な和船模型の製作を志す。平成元年(1989)、近藤和船研究所を設立。和船模型の製作、展示とともに関連資料の調査・収集を行なう。平成16年(2004)、「現代の名工」に選出され「卓越技能章」受賞、2年後「黄綬褒章」を受賞。満79歳にて逝去。