基盤共同研究 日本常民文化研究所所蔵資料からみるフィールド・サイエンスの史的展開
共同研究「日本常民文化研究所所蔵資料からみるフィールド・サイエンスの史的展開」
第8回 公開研究会 終了報告
アナキスト? 構造主義者?
—国際的人類学者・馬淵東一とフィールド・リサーチ—
山路勝彦氏(関西学院大学 名誉教授)
日時:2019年5月17日(金)16:00~18:00
場所:横浜キャンパス9号館11室(日本常民文化研究所)
馬淵東一(1909-1988)の業績としてよく知られているのは、戦前では高砂族(台湾先住民)の研究、戦後ではオナリ神を起点とする沖縄研究であろう。これらは馬淵のフィールドワーカーとしての能力に支えられていたが、彼は、いちはやく注目した構造主義人類学の議論に自ら一石を投じるような理論家でもあった。教員としての馬淵は1953年より東京都立大学で多くの後身を育てた。65年に進学した山路氏もその一人である。フィールドを同じくする門下生ならではの微に入り細を穿つ検討は、馬淵の諸業績の背後にある連関を説得的に示した。
山路氏によれば、第五高等学校時代の馬淵は、マルクス主義の感化を受けた学友の空理空論に飽き足らず、経験的な現実への志向を強めた。それが現地調査を重視する馬淵の人類学のスタイルを準備したという。馬淵はアナキズムに親近感を抱き、時事政論の類いには生涯無関心であった。
馬淵は新設の台北帝国大学文政学部史学科に進学し、土俗・人種学研究室で移川子之蔵の指導を受けた。紅頭嶼(蘭嶼)のヤミ(タオ)の調査を皮切りに、主に中部山地の原住民集落を踏査し、卒業後は研究室の嘱託となって調査は山地全域に及んだ。移川研究室が出版した『台湾高砂族系統所属の研究』(1935)の大半の情報は馬淵が収集したものである。「部族」の系譜を辿ったエスノヒストリーの大著であるが、山路氏はフィールドノート(国立民族学博物館馬淵東一アーカイブ)の精査から、この時期の馬淵が、同一の慣習にも集落ごとのバリエーションのあることに着目していたことや、父系社会における母族の霊的優位に関心を向けていたことを明らかにする。
台湾時代に古野清人の知己を得た馬淵は、古野に誘われ37年から帝国学士院でインドネシア慣習法用語事典の編集に加わった。これがインドネシア研究の窓口となり、戦時には海軍のマカッサル研究所で現地調査もおこなった(身分は43年より台北帝国大学南方文化研究所助教授)。これらの活動を通じて馬淵は、インドネシア研究を牽引していたライデン学派に通暁した。そのことが、後年にレヴィ=ストロースの構造主義人類学に馬淵をいち早く反応させることになった。
戦後の馬淵は日本民族学会を離れたが、柳田国男の民俗学研究所に拠って沖縄研究に邁進した。稲作を根幹とした日本文化論を構想していた柳田は、52年に「にひなめ研究会」を組織し、日本の周辺地域との比較研究に意欲を示していた。54年からは民俗学研究所で「南島文化綜合調査研究」が始められ、本格的な沖縄調査も再開していた。この動きに加わった馬淵は、琉球列島でも精力的な現地調査をおこない、オナリ神(兄弟に対する姉妹の霊的優位)や氏子集団の選系出自、居住空間の象徴性について数多の論考を発表し、後身に大きな影響を与えた。
このような山路氏の検討から改めて認識させられたのは、特定親族の霊的優位や集団の組織原理、空間の象徴論といった晩年の馬淵の沖縄研究のトピックは、青年期の高砂族調査に端緒をもつその発展であったということである。同時に、それらのトピックは、親族の基本構造に霊的信仰を加味する試みであったり、非単型出自論を拡張することであったり、象徴二元論に変化の次元を導入することであった。つまり、それらのトピックは当時の文化人類学一般の話題に関連づけられていて、おそらくそれゆえに戦後の馬淵は国外での研究発表や外国雑誌・論集への寄稿が多かった。山路氏によれば、馬淵は戦前から欧米の人類学の動向に注意を怠らず、丁寧な書評で新刊書をいち早く紹介していた。それらをよく消化し、自らのフィールドで検討し、議論を発展させて送り返す。馬淵が「国際的人類学者」といわれるのはこのためであろう。
本発表で山路氏が触れた内容の一部は下記の文献で詳細に論じられている。
山路勝彦 2011「馬淵東一と社会人類学」、山路勝彦(編)『日本の人類学』、 関西学院大学出版会、 299〜342頁。
山路勝彦 2017「菊池一隆の近著「台湾北部タイヤル族から見た近現代史」論評、および、附編・馬淵東一書簡の公開」、『台湾原住民研究』第21号、176〜215頁。
(文責:泉水英計)