ATTIC MUSIUM

神奈川大学
日本常民文化研究所
Institute for the Study of Japanese Folk Culture Kanagawa University

日本常民文化研究所 創立100周年記念事業

旧渋沢邸の視察調査記

日程:2019年1月20日(日)
調査先:青森県三沢市古牧温泉 旧渋沢邸
調査者:内田青蔵、小熊誠、須崎文代

はじめに


図1 外観

図2 応接室(小書斎)

 新年早々の2019年1月20日(日)、小熊・須崎と内田の3名は、青森県三沢市に移築された旧渋沢邸の視察調査を行った。この旧渋沢邸は、日本常民文化研究所を創設した渋沢敬三が東京三田綱町にあった祖父の渋沢栄一の邸宅を受け継ぎ、1929(昭和4)年から1930(昭和5)年にかけて自らの住まいに増改築し、戦後の財産税として物納するまで自邸として住んでいた住宅である。1934(昭和9)年には、日本常民文化研究所の始まりとなる「アチック・ミュゼアム」もこの住宅の脇に建てられていた。「アチック・ミュゼアム」の建物は失われてしまったが、この住宅は日本常民文化研究所とは極めて深い関係のある住宅といえるのは明らかである。
 戦後、この建物は大蔵省から渋沢家の執事をされていた杉本行雄に払い下げられ、青森県三沢市内に移築されたが、この度、清水建設株式会社が買い取り、新たに東京・江東区内に移築保存されることになった。そこで、我々3名は日本常民文化研究所を代表し、移築工事のための解体が始まる前の現状把握を目的に、清水建設株式会社のご協力を得て視察調査を行った。
 視察調査の報告にあたり、まず、簡単にこの旧渋沢邸について、これまでの建設経緯等の概要を『旧渋澤邸解体及び移築工事調査記録』(清水建設株式会社 平成5年)をもとに、簡単に振り返ってみたい。

旧渋沢邸の概要


  • 図3 広間

  • 図4 客間・暖炉部分

図5 客間天井

図6 書斎

 近代日本資本主義の父といわれる渋沢栄一は、東京・兜町に住んでいたが、1876(明治9)年に深川福住町の屋敷を購入し、家族一同引越ししたという。そして、1878(明治11)年、敷地内に座敷が必要であることから、「表座敷」と称される邸宅の増築を行い、完成させている。木造2階建て、建築面積が約200坪(660m²)の建物で、設計・施工は現在の清水建設株式会社の前身である清水組の二代目清水喜助が担当した。
 ちなみに、この「表座敷」と称される建物は、「檜及黒柿ノ良材ヲ用ヒ、天井ハ神代杉孔雀目ノ一枚板及赤桐ノ一枚板ナリ、欄間ノ葡萄及柿ノ刻物ハ名工堀田瑞松ノ刀ニシテ当代ノ傑作ト称ス」(『青淵先生六十年史』1900)と記されていることから、当時でも貴重な良材と名工の彫り物などによる極めて質の高い明治初期の建築であったことがわかる。加えて、清水組二代目清水喜助の現存する唯一の建築遺構でもあり、建築史的観点からも貴重な建物といえるものである。
 また、栄一は1888(明治21)年に兜町に、新たに新邸を設けている。この新邸は、日本人建築家第一号として知られる辰野金吾の設計による邸宅として知られるもので、運河沿いの水辺の敷地であることからベネチアン・スタイルを採用したといわれる洋館である。ただ、深川邸の屋敷も同時に使用していたようで、1891(明治24)年には清水組の技師長岡本銺太郎の設計で、深川邸の表座敷部分の東側に木造2階建ての離れを増築している。
 ところで、この深川一帯は水郷の景観などの風光明媚な所であったが、周辺に工場が建ち始め、また、井戸水は塩分が強く、飲料用水は1900(明治33)年頃でも水舟から購入するといった状況が続き、生活には不便な所であったという。そのため、1905(明治38)年、栄一は三田綱町の旧薩摩藩士の子爵で、海軍中将だった仁禮景範(にれ かげのり:1831-1900)邸の敷地を購入し、深川から移転することとなった。移転にあたっては、深川の屋敷を解体して移築し、1908(明治41)年に完成している。この移築時には、1891年に増築された離れ部分の位置の変更が行われるなど、深川邸そのものをそっくり移築したのではなく、そして、大規模な増改築が行われたという。その増改築の具体的な内容は、以下のように整理できるという。

① 座敷部分の表座敷は、原形を変えずに元通りの場所に配置
② 東端の離れの2階建て部分は西端に移動 
③ 東端には新たな平屋の離れを新築
④ 玄関は西から東側に移動
⑤ 土蔵は移設せず、新築
⑥ 南面する日本間の桁行長さが2倍程となる


図7 表座敷1階欄間

図8 階段

 なお、栄一は1889(明治22)年に長女穂積歌子のために牛込払方町に邸宅を建てているが、1900-01(明治33-4)年に行われた牛込払方町の邸宅の増改築にも深川屋敷の古材を使い、台所や書生部屋回りの建設を行ったといわれている。このため、深川邸の移築といいつつも、三田綱町邸に持ち込まれた部分は、表座敷と増築した離れ部分だけで、他は新築と考えられるという。
 一方、三田綱町の屋敷は、1929-30(昭和4-5)年、栄一の孫である渋沢敬三により大改造が行われ、1930年に完成している。その大改造の具体的内容は、深川邸から明治以降引き継いできた表座敷と離れ部分を残し、西側の日本間部分を解体し、新たに洋風の玄関、応接室、広間、客間、書斎、食堂などからなる洋館部分を建てている。設計は、元清水組技師で、当時渋沢敬三の勤めていた第一銀行技師の西村好時が担当している。ちなみに、作品集『西村好時作品譜』(1950)では、渋沢邸について「木造平屋建、清楚にして住み心地良きを旨とす」と紹介している。おそらく、洋館部は敬三夫妻が、奥の和館部は栄一が生活の場として使用していたものと思われる。いずれにせよ、この増改築により、表側に洋館、中庭を挟んで背後に和館という、当時の大邸宅の形式である和洋館並列型住宅形式を取り入れた住宅となったのである。
 なお、渋沢敬三は、大正末期から郷土玩具などの収集を行い、車庫の屋根裏を「アチック・ミュゼアム」として利用していた。しかし、収集資料が増え、1933(昭和8)年には邸内の西北隅に2階建てのL字型の間取りの「アチック・ミュゼアム」専用の建物を建てている。この建物の1階は、標本室、談話室、囲炉裏のある出居、2階は書生室、実験室、温室、書斎、暗室が設けられていた(横浜市歴史博物館『屋根裏の博物館』2002)。
また、翌1934(昭和9)年には屋敷の西隣に木造2階建ての「文庫」、並びに敷地東側に木造4階建ての書庫を建てている。ともに、敬三の研究活動のための施設であったと思われる。
 戦後、渋沢敬三が自らの住まいとして増改築した三田綱町の屋敷は、1946(昭和21)年に財閥解体などの処置による財産税として物納され、国家財産となった。そして、以後、45年間、部分的な増改築を経て、また、その名称も大蔵大臣公邸、政府第一公邸、三田共用会議所と変わりつつも基本的には大蔵省が使用し続けてきた。
 しかしながら老朽化もあって1990(平成2)年、新館建設のために取り壊しを決定した。その際、1929(昭和4)年以降渋沢家の書生・秘書・執事などを務め、当時十和田開発社長であった杉本行雄が以前から払い下げを希望していたことから、大蔵省は「現状のまま保存」することを条件に払い下げを認めた。移築先は、青森県三沢市の古牧温泉(現・星野リゾート青森屋)敷地内で、同1990年12月解体起工式が行われ、翌年4月末に解体を終え、翌1991年10月に移築が完了している。この際、戦後に改修された表座敷に隣接した会議室や事務室は、戦前期の状態に戻したという。

視察調査の報告


図9 表座敷2階座敷床の間

図10 2階座敷

 1月という季節に相応しく、建物周囲は雪が積もり、雪景色の旧渋沢邸であった。南側から眺めると平屋の洋館部と2階建ての和館部が一列に並び、そのデザインは洋館側から徐々に伝統的な意匠の建築へと移行している様子が窺える壮観な外観が見て取れる(図1)
 北側の玄関そして玄関ホールに出ると右側が洋館ゾーンへ、北側は内向きゾーンだ。玄関ホールの右隣は応接室で、敬三が小書斎としても使っていたようだ(図2)。応接室の反対側には、大部屋の広間、その背後は食堂、広間の奥は客間で、その隣が書斎と大柄な部屋が続く。広間は天井に大きな梁と小梁が見えるなど木部と壁のコントラストを意識した部屋で、イギリスのチューダー系のデザインといえるであろう(図3)。その奥の客間は、イングルヌック風の扱いの暖炉があり、その窪んだ空間の境にはポインテッドアーチが見られるなど大柄ながらも、チューダー系の特徴といえる(図4)。一方、天井の浅浮彫りの優雅な漆喰装飾はエリザベス様式の特徴ともいえるであろう(図5)。この部屋と隣の書斎は引戸で仕切られており、開けると大きな部屋としても使えるよう工夫されている。この書斎の2つの壁面には造り付けの書架があり、書斎であることを主張している(図6)。
 書斎から更に奥に進むと、子供室としての和室がある。そしてその奥にある和室が清水組2代目清水喜助の手掛けた「表座敷」がある。1階の続き間部分の欄間には、『青淵先生六十年史』の記述にある葡萄の透かし彫り欄間が確かに見られる(図7)。2階への階段親柱はもとより、手摺子は黒柿、笠木は紅紫壇で、それらの硬質な独特な木目が美しい(図8)。2階には柿の透かし彫り欄間があり、また天井は神代杉の一枚板がふんだんに使われており、また、その天井格組の形と床の畳の配置の形が同じであるなど、天井と床の上下の意匠を揃えるという興味深いデザインが展開されており、2代目清水喜助の独自のデザイン追求の姿勢が見て取れる(図9、10)。
 1時間という極めて短い時間ではあったが、渋沢栄一・敬三の生活の様子が垣間見られたのは大変興味深かった。とりわけ、民俗学の重要性を唱え、また、自ら研究を展開していた敬三の使用していた小書斎や書斎の空間を体験できたのは、日本常民文化研究所所員の一人として、うれしく、かつ、貴重な経験だった。
 今後、東京・江東区に移築されることになるが、再びこうした経験を再現できることを楽しみにしている。

(文責:内田青蔵)