神奈川大学日本常民文化研究所

調査と研究

基盤共同研究 日本常民文化研究所所蔵資料からみるフィールド・サイエンスの史的展開

第1回研究会 飯田卓(国立民族学博物館)「日本民族学協会の共同事業—博物館とエクスペディション—」

日程:2016年7月4日(月)16:30~18:00
会場:神奈川大学日本常民文化研究所

第1回研究会風景

 ミンゾク学者による共同事業としてエクスペディションと博物館がある。飯田氏の講演はそれらの起点を渋沢敬三の活動にたどった。
 今日の日本民俗学や文化人類学がそれぞれ組織的基盤を整えて調査研究を展開し始めたのは1930年代中頃であった。渋沢の主宰したアチックミューゼアムもまたこの時期に全盛期をむかえる。同人たちは奥三河や岩手石神、新潟三面、瀬戸内海、薩南十島などへ分け入り、また、朝鮮多島海や台湾といった植民地にも足跡を残した。これらエクスペディションのなかで共同調査という手法が試みられ、渋沢はチームワークの重要性を訴えた。同時に彼らは、書記や作図、写真という従来からの記録術ばかりでなく、動画フィルム撮影という比較的新しい技術を積極的に導入し、類例の少ない貴重な記録をのこすことになった。
 一方で、標本として同人たちが調査行から持ち帰る生活用具がアチックに民具のコレクションを生み出し、これを収蔵し展示する場所の必要が高まった。渋沢の博物館構想は、1938年に保谷に開設された日本民族学会付属博物館としてまずは実現する。しかし、より十全な施設の計画は戦時のために頓挫した。戦後は1950年代初頭に、文化財法案の整備をうけて、日本常民文化研究所も関連学会とともに国立民俗博物館の設置を働きかけたが実を結ばず、民具コレクションは一時期、(旧)文部省史料館(その後、国文学研究資料館)に眠ってしまっていた。1970年代後半に至り、大阪万博跡地に国立民族学博物館を設立するにあたり民具コレクションがその基礎資料となる。渋沢の懸案はここにようやく成就することになった。
 戦後のエクスペディションとして飯田氏が注目するのは、戦災復興が進んだ50年代後半に再開された海外への学術探検である。多くの場合、同行取材する映画やテレビ業界の資金、あるいは学術振興会の助成金に支えられていた。博物館の組織化が戦後に進展したのとは対照的に、エクスペディションは戦後にむしろ個別化個人化がみとめられるという。
 このような歴史的経緯の解説に続き、飯田氏が国立民族学博物館で現在推進中のフォーラム型情報ミュージアムプロジェクトや、地域研究画像デジタルライブラリについての紹介があった。その後、活発な質疑応答がもたれ多くの話題があがったが、一点のみ記せば、戦後海外エクスペディションの嚆矢となった東南アジア稲作調査団と、柳田国男が農学者を誘って活動していた稲作史研究会の関連は更に深く検討してみる意義を強く感じた。

(文責:泉水英計)

国立民族学博物館フォーラム型ミュージアムプロジェクト