基盤共同研究 日本常民文化研究所所蔵資料からみるフィールド・サイエンスの史的展開
岩手石神と青森旧渋沢邸の調査
日程:2017年1月6日(金)~1月9日(月)
調査先:岩手県八幡平市、八幡平市博物館、青森県三沢市旧渋沢邸
参加者:泉水英計(所員)、高城玲(所員)
渋沢敬三をはじめとするアチック・ミューゼアムの一行が、当時の岩手県二戸郡荒沢村石神(現岩手県八幡平市)を訪れたのは、1934(昭和9)年9月のことである。この年は、1月に以前から継続していた三河での花祭調査からはじまり、5月には大規模な薩南十島調査、引き続いて隠岐での調査など、アチック・ミューゼアムの調査活動が活発に行われた年でもある。それら調査時には、スチールカメラや16ミリカメラを持参し、写真やフィルムで記録しており、日本常民文化研究所にはそうした写真やフィルムが残され所蔵されている。
特にアチックの石神調査に関しては、写真のみならず動画フィルムとしても「男鹿、能代、藤琴、石神、八戸」と「イタヤ細工」の一部に当時の様子が記録されており、近年では昆(2016)などで映像の解説もなされている。また、渋沢らが訪問した翌年の1935(昭和10)年7月末からは、渋沢と親交があった有賀喜左衛門が石神で集中的な調査を行い、後に日本の農村社会学を確立したといわれるモノグラフ『南部二戸郡石神村に於ける大家族制度と名子制度』(アチックミューゼアム彙報43、1939年)を刊行している。そこでは、当時の大屋斎藤家を中心とする名子制度が詳細に分析され、日本の家を把握する大きな理論的柱ともなっていく(福田 2002など)。
このように、アチック・ミューゼアムによる一連の調査の中での重要性のみならず、その後の有賀らによる調査の重要性から、今回の共同研究における最初の調査地として石神を訪問した。特に、石神関連の展示をしている八幡平市博物館では、現在の斎藤家当主の方から当時の資料を閲覧させて頂き、話しをうかがうことができた。
中でも、1934年アチック調査時の写真を渋沢が当時の当主斎藤善助氏に寄贈し、アルバムとなって残されていた資料には写真情報の書き込みがなされており、貴重な資料として確認された。他にも、斎藤善助氏と有賀やアチック同人らの間でかわされた往復書簡が多数残されており、有賀が手紙を介して斎藤氏に調査関連の質問をしていることなども確認された。なお、これら資料のうち往復書簡などに関しては、三須田ほか(2016)などで翻刻や分析が進められている。
このように有賀らによる石神での調査研究がその後の日本農村社会研究に与えた影響については、近年の新たな資料から再検討されつつある。さらにその先には、海外での学術フィールド調査における農村社会研究に有賀らが与えた影響についても改めて検討されるべき課題となりえる可能性もあるだろう。
また、アチックによる石神調査は、有賀を中心とする日本の家制度など農村社会の分析に結実していくことになるが、他方で最初の調査にも同行していたアチック同人らによる民俗・民具関連のまとまった調査報告は管見のかぎり見当たらない。石神調査の全体像に関しても、今後の検討課題となるであろう。
なお、今回の調査では、現在青森県三沢市に移設されている旧渋沢邸をあわせて見学する機会も得た。
(文責:高城 玲)
参考文献
昆政明 2016「男鹿、能代、藤琴、石神、八戸」宮本瑞夫・佐野賢治ほか編『甦る民俗映像─渋沢敬三と宮本馨太郎が撮った1930年代の日本・アジア』岩波書店 258-261頁。
福田アジオ 2002「南部石神へ─石神調査と有賀喜左衛門」横浜市歴史博物館・神奈川大学日本常民文化研究所編『屋根裏の博物館─実業家渋沢敬三が育てた民の学問』横浜市歴史博物館 56-57頁。
三須田善暢・林雅秀・庄司知恵子・高橋正也 2016「石神大屋斎藤家所蔵有賀喜左衛門関係書簡類」『岩手県立大学盛岡短期大学部研究論集』18 1-20頁。