神奈川大学日本常民文化研究所

調査と研究

基盤共同研究 日本常民文化研究所所蔵資料からみるフィールド・サイエンスの史的展開

第11回公開研究会 終了報告「東亜同文書院と書院生による東アジア大調査旅行について」

東亜同文書院生の中国大(調査)旅行と描かれた近代中国
藤田 佳久氏
(愛知大学名誉教授 元愛知大学東亜同文書院大学記念センター長
 日本沙漠緑化実践協会会長)

日時:2019年11月22日(金)16:00~18:00
場所:横浜キャンパス9号館11室(日本常民文化研究所)

  • 藤田佳久氏
  • 『新修支那省別全誌』東亜同文会(1941年)

 東亜同文書院は、戦前の上海にあった日本の私立大学である。荒尾精が開いた日清貿易研究所(1890年)と近衛篤麿に南京同文書院(1900年)が合流し、1901年に東亜同文書院が発足、1939年に大学に昇格した。
 荒尾は陸軍士官学校時代に、日清が提携することで列強へ対抗する構想を抱き、岸田吟香の助力で漢口(武漢)に渡り、中国語、英語、支那商業史、経済学を教える私塾を開いた。塾生による調査研究は、陸士の学友である根津一がまとめ『清国通商総覧』(1892)として上梓している。
 近衛もまた、列強へ対抗するための日清の提携の必要を説き、教育文化機関として同文会を設立した。当初は清国留学生を東京の私邸内に受入れ、翌年には南京に移転したが、義和団の乱を避けて上海に移転、院長に根津を迎えた。犬養毅の東亜会が合流した組織であったが、政治色を脱し、各種学校の経営や出版事業が主要な活動であった。
 東亜同文書院では日清両国の学生が共学し、相互理解にもとづいた東アジアの共存共栄に資する人材の育成がはかられた。その愁眉となった教育プログラムが、藤田氏が「大調査旅行」と呼ぶフィールドワークであった。最終学年の書院生はグループごとに研究のテーマと調査地を設定し、3箇月から6箇月をかけて中国大陸の奥地や満洲、あるいは東南アジアを巡見しその調査記録を作成していた。閉校までの35年間におこなわれた調査行は700行程に及ぶ。書院生が提出した調査記録からは『支那省別全誌』(全18巻)が編まれている。

 藤田氏は、書院生の報告書や日誌を読み解き、同氏が「大旅行」と呼ぶこのフィールドワークの全貌に迫る研究を長年にわたり続けている。当日の発表では、たとえば、中国大陸を分断する貨幣圏と方言圏の重なり、各地方に出没した匪賊の分布状況など、書院生による具体的な調査内容と分析が紹介され、彼らの活動の様子が生き生きと蘇るように語られた。東亜同文書院の日本人学生は、各府県から推薦され県費で学費がまかなわれていたため、裕福ではない農家の子弟も多かったという。そのような出自は、彼らが中国の一般大衆の生活圏に分け入ることを助けた。また、軍閥の割拠していた中国大陸で、安全な大都市ばかりでなく、農村や僻地の実情までも含め、そこで暮らす人々と同じ目の高さで観察するというのは希有なことであった。若い書院生たちの残した実地調査の貴重な記録は、冷戦期の政治的偏見から批判あるいは閑却された時期があったが、日本でも中国でも再評価が始まっている。いま東亜同文書院の活動を振り返ることは、単に歴史的な関心ばかりではなく、グローバル化時代における日本のビジネスモデルを模索するうえでも示唆に富むものであろう。
 東亜同文書院大学は敗戦により閉校したが、最後の校長であった本間喜一の尽力により、1946年11月に愛知大学として豊橋で再出発し現在にいたっている。

(文責:泉水英計)