神奈川大学日本常民文化研究所

調査と研究

基盤共同研究 渋沢敬三に関する総合的研究

渋沢敬三の住まいを訪ねる

日程:2025年3月6日(木)
調査先:渋沢邸跡(三田綱町)、清水建設渋沢邸(江東区潮見)、
 渋沢邸跡・澁澤倉庫(深川福住町)
調査者:丸山泰明、関口博巨、川島秀一、越智信也、加藤友子

  • 三田綱町の渋沢邸跡
  • 清水建設内に移築された渋沢邸にて
江東区永代にて、川の右側にはかつては近江屋河岸と呼ばれ
澁澤倉庫の建物が建ち並んでいた

 渋沢敬三についての理解を深めるために、暮らしていた東京都内の場所や建物を訪ねた。我々が訪ねたのは、1896年に渋沢が生まれ子供時代を過ごした現在の深川福住町(現・江東区永代)の渋沢邸跡、1906年に移り住み生涯を過ごした三田綱町の渋沢邸跡、そして江東区の清水建設内に移築された渋沢邸である。実際の順番としては、午前中に三田綱町、午後に清水建設の渋沢邸、深川福住町とめぐった。
 深川福住町の渋沢邸は、もともとは豪商であった近江屋近左衛門の家を渋沢栄一が買い取って住居にしたのが始まりである。同地には渋沢邸跡を示す説明板があり、渋沢邸に隣接して1897年につくられた澁澤倉庫が今も所在している。近くには日本倉庫協会もあり、かつて運送業でにぎわった当時の面影を今も残している。近くにある澁澤倉庫のいわゆる企業神社である福住稲荷神社をお参りし、奉納された多数のさし石(力石)を見て、かつて運送に従事した力自慢たちを偲んだ。
 三田綱町の渋沢邸跡へは、かつての一般的な行き方であった市電の二之橋の停留所からの道のりをなぞり、二の橋の交差点から日向坂を登って行った。三田綱町の渋沢邸跡には現在、国が国際会議などに用いる三田共用会議所がある。戦後、幣原喜重郎内閣の大蔵大臣をつとめた渋沢は、自ら設けた財産税のため邸宅と土地を国に物納したため、国の土地となっている。物納後に渋沢は、崖下の元使用人の住居を経て、アチック・ミューゼアムと文庫を改造した住まいで暮らした。三田共用会議所となっている渋沢邸跡の隣はオーストラリア大使館(元・蜂須賀侯爵家邸宅跡)、さらにその隣は綱町三井倶楽部(元・三井家の迎賓館)であり、一画は周囲よりも高く、「山の手」の趣を感じさせた。渋沢は後年、深川福住町から三田綱町から引っ越したことについて、「家が三田へ引き移ってから(日露戦争直後)、なんだか急に古いものから解放されたような気分がしたことを覚えている」(「うろ覚えの民俗」『渋沢敬三著作集第3巻』平凡社、1992年)と回想している。
 国に物納された渋沢邸は国の施設として使われていたが、老朽化により取り壊しが決定すると、渋沢の秘書であった杉本行雄が払い下げを受けて、自らが青森県にて経営する古牧温泉に1990年に移築された。さらに清水建設の創業者である清水喜助が手掛けた建築であることから、東京都江東区にある清水建設の敷地内への移築が行われ、2023年に完了している。今回の見学にあたっては、清水建設の若林慎司氏および坂井和秀氏よりたいへん詳しい説明を受けたことにより、建物の細部や、移築や家具・調度の再現に対するこだわりと熱意について深く理解することが出来た。
 アチック・ミューゼアムの研究員である拵嘉一郎は、三田綱町の渋沢邸を初めて訪れた時の印象を次のように記している。「この綱坂(注・正しくは日向坂)を登り切って平坦になったあたりの、道路からやや引き込んで少しばかり上り勾配になったところに渋沢邸の正門があった。とてつもなく大きな四角い門柱と、一間はあろうかと思われる一部に滑車のついた見上げるような二枚の大扉があり、その左脇には三尺ほどの潜り戸があった。まさに圧倒される和風木造の堂々たる門構えであった。(中略)浜田さん(注・浜田国義)に連れられてその正門を入り、玉砂利を敷き詰めた内玄関や正面玄関の自動車が幾台も置けるような広々とした前庭を右へ横切って、その奥にあるアチック・ミューゼアムに落ち着くと、もう夕方近くになっていた(『渋沢敬三先生と私—アチック・ミューゼアムの日々』平凡社、2007年)。今回の一連の訪問は、渋沢敬三の生涯を空間的にたどるとともに、戦前に地方から上京して渋沢邸を訪れた人たちの実感を追体験するものとなった。

(文責:丸山泰明)