神奈川大学日本常民文化研究所

調査と研究

基盤共同研究 日本常民文化研究所所蔵資料からみるフィールド・サイエンスの史的展開

第2回 共同研究「日本常民文化研究所所蔵資料からみるフィールド・サイエンスの史的展開」
公開研究会 
「日本農村社会学の始点—石神齋藤家と有賀喜左衛門」報告

日時:2017年2月28日(火)13:00~16:00
場所:3号館207教室

左より林、長谷部、三須田の諸氏
左より林、長谷部、三須田の諸氏
左より林、長谷部、三須田の諸氏
常民研資料の説明をうける諸氏
常民研資料の説明をうける諸氏
常民研資料の説明をうける諸氏

 『南部二戸郡石神村に於ける大家族制度と名子制度』(1939)は、有賀喜左衛門がそのイエ論を確立した著作として知られる。オヤコの原義が父母とその子供という親族関係ではなく、労働組織内の役割関係であると推論したのは柳田国男であった。これを足がかりにして有賀は全国の小作慣行報告を通覧し、小作人が地主に提供する賦役は土地の賃貸料ではなく、地主の経営に参加する見返りに地主の保護を得る従属的身分の表現であると論じていた(「名子の賦役」(1933))。アチック・ミューゼアムによる石神共同調査によって、有賀はこの議論を実証する機会を得ることになった。当時、小作慣行は封建遺制としての性格をめぐってマルクス主義者のあいだで論争の的であった(日本社会主義論争)。しかし、有賀は、石神のデータを根拠にして、経済の範疇を越えた「全体的相互給付関係」として小作慣行がよく理解できることを示した。このような視角から有賀は主著『日本家族制度と小作制度』(1943)を編み、また、家族社会学者との論争において、農地解放や高度経済成長を経ても持続するイエの存在を主張することになる。

 今次の研究会に招聘した三須田善暢氏と林雅秀氏は、数年前に岩手県で農村社会学のフィールド再訪を始め、とくに有賀の石神調査に関連した新資料の発掘を精力的に進めている。これまでに、両氏を中心とした共同研究グループが手がけた主な資料には、石神齋藤家の文書類、有賀の調査に同行した土屋喬雄の調査ノート(一橋大学附属図書館蔵)、逗子の有賀邸に遺された文書類があり、一部はすでに翻刻を発表している。研究会では、これらの新資料の検討から導かれる学史再考の可能性について、三須田、林、および彼らの共同研究者である長谷部弘氏からそれぞれ発表があった。

 三須田「石神調査と有賀喜左衛門、および関係する人物」は、齋藤家当主との往復書簡および有賀の調査ノートの検討から、インフォーマントの役割の重要性を再評価する。1935年7月の初訪問以来、有賀は繰り返し齋藤家を訪れて聞書を重ねたが、実は当主・齋藤善助三との文通によって収集された情報も多かった。齋藤は煩瑣な調査の要望にも積極的に応えているが、より詳細に検討すると、有賀への返信には佐藤源八が回答している場合も多い。佐藤は石神の隣村の郷土史家であり、彼が独自に書きためていた民俗誌稿は後にアチックミューゼアム彙報『南部二戸郡淺澤郷土史料』として出版された。有賀は石神調査について3冊のフィールドノートを遺しているが、その1冊は佐藤の民俗誌稿の摘要であった。石神の有賀は一地域の集約的調査によるモノグラフを著したフィールドワーカーという印象が強いが、旅程を確認すると実際に滞在したのは数日に満たない。むしろ、三須田の検討からは、齋藤善助や佐藤源八の提供する二次情報を整序する理論家の姿が浮かびあがる。

 林「石神齋藤家における漆器生産」は齋藤家の家内制手工業に注目する。有賀の初訪問時に齋藤家は職工を家に入れ漆器製造業を営んでいたが、有賀のモノグラフには関連する記述が少ない。安比川流域は上流で木地が生産され、下流では生漆が採取されて、石神のある中流域は漆器製造の適地であった。大正期には北海道市場へ廉価な製品を大量に送り出し盛んであったが、漆器生産高も販売額も大正末をピークに急落しており、当地の漆器生産の盛衰と、齋藤家に昭和期も存続した名子制度との直接的な相関は見いだせない。安比川中流域の主要な副業が木炭業や馬産へと移行したことが漆器生産の比重を下げた可能性があり、齋藤家文書の検討における一つの課題である。

 長谷部「経済史からみた有賀石神村研究の意味」は、石神調査の学史上の評価を確認し、これを踏まえて、先の両氏の取り組みがもつ意義を評価する。有賀が描いた石神像は、これを起点に彼がイエ・ムラ論を発展させたことにより日本の農村の一つのモデルとみなされてきた。しかし、林が見通したように、齋藤家は広域市場経済のなかで形成された複合経営体でもあった。有賀の報告からは、齋藤家が漆器ばかりでなく綿羊飼育にも手を染めていたことがわかり、齋藤家文書に混じる有価証券からは資産運用にも熱心であったことがわかる。すくなくとも、齋藤家を農家とのみとらえることは一面的な理解にすぎない。であれば、同時代の名子制度も農村慣行の単なる存続ではなく、近世末からの流動化する労働環境のなかで地主たちが従来の慣行を再解釈しつつ新たに構成したものとして理解することもできるであろう。この点で、三須田が現地のインフォーマントの役割を再評価したことは意義深い。長谷部によれば、齋藤善助や佐藤源八は単に情報を提供したばかりでなく、有賀の記述は彼ら「常民のイエ・ムラ論」を写し取ったものであるともいうことができるからである。

 このような発表にたいしてフロアから多数のコメントが寄せられた。主な話題のみ拾うと、有賀・喜多野論争に関連した同族団および親方子方関係の地方差について、齋藤家の経営規模と米穀市場投資について、石神の近隣村落での地主層の投機的経営について、民族誌記述におけるインフォーマントとの共同作業の在り方について、人類学の一般理論の影響について、鉄道開通による木炭生産拡大が東北の産業に与えたインパクトについて質疑と応答が活発におこなわれた。

(文責 泉水英計)