神奈川大学日本常民文化研究所

調査と研究

基盤共同研究 日本常民文化研究所所蔵資料からみるフィールド・サイエンスの史的展開

共同研究「日本常民文化研究所所蔵資料からみるフィールド・サイエンスの史的展開」
第7回 公開研究会 終了報告

我が師を語る—費孝通・中根千枝と中国でのフィールドワーク—
横山廣子氏(国立民族学博物館 名誉教授)

日時:2019年1月25日(金)16:00~18:00
場所:横浜キャンパス9号館11室(日本常民文化研究所)

研究会場の様子
横山廣子氏

 費孝通(1910-2005)は、おそらく最もよく知られた中国の文化人類学者であろう。マリノフスキーの指導で書いた学位論文『中国農民の生活』(1939年出版)は、機能主義人類学に立脚した民族誌として有名である。しかし、対日戦争と中国国内の政治的混乱により彼の学術活動は1970年代後半まで抑圧された。けれども、その後は、中国社会科学院社会学研究所が設置(1980年)されると初代所長に、北京大学社会学系が設立(1982年)されると教授に就任し、学術研究機関の再整備の先頭に立って活躍した。国際的な学術活動を再開した費と早くから親交を結び終生の交流をもったのが中根千枝であった。1975年の訪中学術文化使節団で費の知己を得た中根は、数次にわたるチベット調査の度に北京の費を訪問し、費の派遣した研究者を東京大学に受け入れ、費を記念する学術シンポジウムに繰り返し招聘され、また、費を記念する学術シンポジウムを東京でも開催した。

 講演者の横山廣子氏は、東京大学の大学院生であった1980年代初めに北京に留学し、費の『生育制度』の翻訳(1985)を手がけたこともあり、長年にわたる費と中根の学術交流に立ち会ってきた。講演では、直接に観察した者ならではの詳細でニュアンスに富んだ両者の姿が描き出された。さらに、横山氏は、いまだ外国人の調査が制限されていた1980年代前半の雲南省白族居住地での滞在経験にも触れた。研究テーマをあらかじめ設定するのではなく、フィールドで遭遇する人々の不可解な言動に注意すべきであるという。相手の視点に想像を巡らして自己とのズレを解明しようとすることから研究テーマが立ち上がるからである。 このような経験を、民族概念以前の他者認識などを例に具体的に語った。

 中国国内の民族的帰属については、費孝通に「中華民族多元的一体構造論」(1988年)という有名な議論がある。民族間の接触と交流は、個別民族のみの研究を許さないほどに長期にわたる頻繁なものであり、諸民族の総体としての中華民族を前提に研究されなければならないという。中国の国民的統合という実践的な課題と親和的な論旨であるが、実際に費は共産党幹部の海外訪問に同行したり、全人代常務委員会の要職を務めたりと政治の分野でも活躍していた。折々の社会的問題への関心は、農村の工業化や経済発展による家族の変容を研究対象に選んだことにも表れている。改めてみてみれば、処女作『中国農民の生活』にもすでにそのような「実践人類学」的視点は明確であり、ここにもマリノフスキーの影響がうかがえよう。

 以上のような横山氏の講演に、とくに中国からの留学生が多く詰めかけ、熱心に耳を傾けていたことが印象的であった。

(文責:泉水英計)