神奈川大学日本常民文化研究所

FIA国際人類学フォーラム 非覇権的人類学を求めて—文化の三角測量— 日本語版詳細2日目

2013-5-18 シンポジウム「非覇権的人類学を求めて-文化の三角測量-」(第2日)

5/19 プログラム

「オーストロネシア世界における海上運搬具の技術革新にみる技術性と傾向」 - フランス技術人類学の諸概念の適用可能性について – 後藤明(南山大学)

後藤 明(南山大学)

本講演ではFTAT (Francophone Tradition of Anthropology of Techniques) におけるシェーン・オペラトワールchaîne opératoireや傾向tendanceの分析概念を使ってオーストロネシア世界の海上運搬具(カヌー)の技術革新に見る技術的選択の問題を論ずる。具体的には艤装、アウトリガーの構造および航海法について分析を行い、上記概念の有効性を示す。

さらに本論文では、フランスと英米圏において微妙にニュアンスが異なることが認識されているtechnique/technologie vs. technique/technologyの概念対比が、漢語と外来語の混在する日本語においてさらに複雑な関係を示していることを論ずる一方、ポリネシア語などには相当する概念はないが、M.モースの技術論と呪術論の原点にも通ずる側面があり、今後技術を巡る概念の三角測量的な比較研究が重要であることについて論ずる。

「東アジアにおける端午節」 - 薬物を中心に – 周星(愛知大学)

周 星(愛知大学)

中国の端午節、韓国の端午祭、日本の端午の節句を一国民俗学の立場からすると、それぞれの国の年中行事に組み込まれて語られることや、それぞれの端午の特徴が強調されることは、当たり前であるが、「端午」をめぐる一部の民俗事象が無視されるか過小評価されて、見失われることもあり得る。比較民俗学の立場からすれば、「東アジア」という枠組みの中で「端午」を取り上げ、その根底に共通・共有される端午の文化を再認識することができる。それは「薬物」である。

本発表では、有形・無形あるいは物質文化・非物質文化の二分法を乗り越えて、端午祭における「薬物」を考察し、東アジアに共通する独特な宇宙論に基づく端午の薬物の原理を明らかにしたいと思う。

「生業形態の変化と信仰」- モンゴル族のオボー信仰を事例に – 白莉莉(神奈川大学)

白莉莉(神奈川大学)

内モンゴルの牧畜地域は、伝統的な遊牧生業形態から定住的な牧畜生業形態へと劇的に変化している。これは、従来の「水草を追って家畜を遊牧する」という遊牧生業形態から、世帯単位で一定の制限された牧場の中で牧畜生業を営むという生業形態への転換を意味する。20世紀後半からの人口の増加と生態環境の破壊に加えて、近年市場経済の発展に伴い、内モンゴルの牧畜地域は牧畜業を中心としながら多様な生業形態を形成している。

報告者は、2008年から内モンゴルの典型的な牧畜地域であるオルドス市オトク地域を中心に、そこに暮らすモンゴル人を主体とする牧畜民の伝統的なオボー祭祀活動に着目してきた。本発表は、この地域の牧畜民たちの生業形態の多様化の実態を取り上げ、市場経済の発展に組み込まれる中で、それが牧畜民の伝統的なオボー祭祀活動にはいかなる影響をもたらしたのかに注目する。そのうえで、伝統的な民俗文化の変化と持続について検討を試みる。

「身体コミュニケーションによる伝承」- 祭祀儀礼の場から – 廣田律子(神奈川大学)

廣田律子(神奈川大学)

祭祀儀礼で儀礼の実践に必要な所作や演技の所作などは身体表現にかかわり、口頭や身体コミュニケーションによって伝承される。身体コミュニケーションによって伝承される儀礼知識は個人の解釈や記憶の変容、さらに外的な影響など差異を生じる要因を多く有している。
 
さらに身体コミュニケーションによる伝承では模倣行為が実行される。受礼の場で模倣することによって儀礼の実践に必要な所作が伝承され、宗教職能者としての方術を修得することになる。模倣行為、ものまねはもともと神に扮して行動を再現することと考えられ、呪術的な意味を有している。

中国江西省石郵村で春節に漢族により行なわれる、仮面神が家々を来訪し災いを祓い福を招く追儺の祭り及び中国湖南省藍山県滙源郷湘藍村の過山ヤオ族の宗教職能者が祭司を務めるイニシエーションを事例とし説明を試みる。

「自己演技と身体」‐認知症からの問いかけ‐ 野村雅一(国立民族学博物館)

野村雅一(国立民族学博物館)

増えつづける認知症(dementia)は近代の産業社会の病いともいわれる。アルツハイマー病や脳血管障害などによる症候群だが、記憶力障害、時間や場所の見当識障害、抽象思考・計算力障害、さらに言語障害などがその「中核症状」とされる。老齢による感覚や知的能力の通常の衰えとの違いをみきわめるのは必らずしも容易ではないが、患者とされる人口は、日本では数年前65歳以上の5〜6%とされていたのが、現在では10%を越えている。個人の「自立」が人間の条件のように語られるアメリカでは、今後の医療の最大の課題といわれている。

“identity crisis”に陥った患者は、まるで雲の上を歩いているかのようだが、それでも辛うじて地に足をつけて生きることを可能にしているのが、生活史のなかで身につけた身体知である。自転車乗りであれピアノ弾きであれ、からだでおぼえた技(art)は忘れず、生の支えになっている。

今回の発表では、認知症を手がかりにして、記憶、仮構世界、記号、「私」の演技などを考察する。

「レヴィ=ストロースと日本」‐見る、聞く、読む、恋愛の身体・断章‐ ミカエル・フェリエ(中央大学)

ミカエル・フェリエ(中央大学)

レヴィ=ストロースと日本の関係は、奥が深くて複雑な上に不明瞭であるが、魅惑の対象や、無理解や単なる解明の対象などに帰するような性質のものではない。

彼にとって日本は、興味を持って蒐集していたプラモデルへの情熱との関連から、既に子供時代からの約束の地であり、自らの人類学理論の偏心の事例であると同時に、レジスタンスとパラドックスの地点としてあらゆる角度からあくなき接近を試みた地でもある。

その行程を、未発表文献を参考に、歴史的背景に当てはめて見直してみたいと思う。そして、彼の文書に記された日本の存在を、順を追って厳密に確認したい。最初に登場したのは、あまりに束の間だったため、解説学者らによって指摘されることさえなかった『悲しき熱帯』においてで、最後は遺稿として発表された後期の作品(『月の裏側』『現代世界の諸問題に対峙する人類学』)となる。

最後に、「文化の三角測量」と「非覇権的人類学」の理論上の条件について考察し、このテーマに関してレヴィ=ストロースと日本の関係が教えてくれることについての解釈を試みたいと思う。

「仮面文化の三角測量」(アフリカ・北米・アジア・ヨーロッパ・オセアニア) レモン・メイヤー(オマール・ボンゴ大学(ガボン))

レモン・メイヤー(オマール・ボンゴ大学(ガボン))

本発表では、五大陸(アフリカのバントゥー語圏、アメリカの先住民族、アジアのシナ・チベット語族、オセアニアのバヌアツ共和国、西ヨーロッパ地域)における例や、実際の体験から学んだことに基づいて、仮面の社会人類学の一例についてその概略を示してみたい。それによって「テーマ」だけでなく「テーマの他性」をも表現する「オブジェ」(仮面)を分析する際に適用できる多様なモデルが示されるのである。

仮面における、露骨でこれ見よがしで、且つ熟考されたテーマの二重化は、どんな文化圏においても、まことしやかな状況でよく似た存在を作ることで、自分でない他者へテーマを投影する能力と解釈されたり、仮想の世界と繋がろうとする想像力を養う練習であると解釈される。この分析において、最初に川田順造氏が技術分野(1999)に適用した文化の三角測量を、このショー芸術にも適用してみたところ、特に新しいモデルを創る必要もなく、互いにかけ離れた例においても、共通モデルの関連付けが可能であった。新しいデータによってわかるのは、仮面を使用して示される想像の世界では、技術的モデルの三角測量の時とは反対に、文明技術レベルでの格差とは一致しない諸文化が生まれるということである。

2013-5-19 公開研究会「第三世界から見た日本文化」

ラテン・アメリカと日本 - 不均衡な関係、分離、結合、変貌 - フランソワ・ラプランティーヌ(リヨン第2大学)

フランソワ・ラプランティーヌ François Laplantine(リヨン第2大学名誉教授(フランス))

日々、非ラテン化しつつあるラテン・アメリカ大陸は、もともと均一な大陸ではなく、歴史的に4つ(インディアン、アメリカ黒人系、コンキスタドール文化圏、リベルタドーレス文化圏)に分類される。この講演では、これらの社会や日本における、時間や空間によって変わる関係について問いかけたい。ミハイル・バフチンが提示した「クロノトポス」という概念を念頭に置きつつ、南半球から日本へ移動すると時間と空間の関係が反対になることを明らかにする。そして、分離と排他だけではない結合社会の仮説を立てる。日本は分離を重んじる国であるが、外からの流入を受け入れる(そして追い越す)傾向もある。

講演の第2部は、日本とブラジルの関係についてである。「もののあはれ」と「saudade」(憂愁、メランコリー)が非常に近い感情であることについて述べたい。そして次に日本とブラジル間の相互の移住の歴史にふれよう。ブラジルに初めて移住した際に差別を受けた日系人も、既に6代目に至っている。今日ではもう外国人扱いこそされていないが、依然わずかなよそ者感を感じており、彼ら自身にも少し違うという意識がある。

日本人の子孫が完全なブラジル人として扱われることの難しさと、日系ブラジル人が祖国日本で出会う困難とは必ずしも対をなしていない。なぜなら、二国の交換関係においては、日本が優位に立っているからである。日本とブラジルの関わり(さらには日米間の関係)は非常に複雑である。その点に問いを投げかけてみたい。

‐ガボンとウォリス・フツナ諸島から‐ レモン・メイヤー(オマール・ボンゴ大学)

レモン・メイヤー Raymond MAYER(オマール・ボンゴ大学人類学部教授(ガボン国リーブルヴィル市))

今発表は3点を中心に展開する。最初は、「日本のような先進国と、そうでないガボンやポリネシア諸島等との間の経済・技術的アシンメトリーが文化に関しては原則的に存在しない」というパラドックスから出発する。レヴィ=ストロースの著作である『人種と歴史』(1952)や『文化と歴史』(1973)が引き起こした議論に立ち戻らない限り「文化と文化の間には何らのヒエラルキーも存在しない」という論点先取になる。言い換えると、文化と文化の間に優劣はなく、存在するのは質的な違いや各々の特異性であるということである。

以上を前提にして日本とガボン(私が37年間生活し、国籍も取得した国)等アフリカ諸国の文化交流を見てみると、今のところ双方共、お互いについて無知であり、明らかに交流も少ない。まるで経済・金融関係における重要度のバランスがそのまま文化関係にも反映されているかのようである。この状況は、移動や移住の傾向や数字(旅行産業のような一時的なものと、日本人のペルーやブラジル移住のような定住型の両方を含む)にも表れている。現状では、アフリカにおける日本文化といえば、もっぱらテクノロジーや自動車などの「製品」であり、その「作り手」ではない。言い換えると、相対しているのは顔の見えない(製品の)流入か、またはカルチャー商品(テレビで放映される日本のアニメ等)なのである。

例えば、ポリネシア諸島(中でも私が2年間生活したウォリス・フツナ諸島)を見てみると、距離的には日本により近いにも拘らず、日本文化の流入状況はほぼ同じであるが、第二次世界大戦(1939-1945)の歴史的刻印は島々の口碑(言い伝え)に長期にわたって痕跡を残している。今発表では、話し言葉や歌や踊りの伝統的な例を挙げてみようと思う。それらの例を元に、世界情勢に対する文化人類学的観点の適用は、新しい理想社会(ユートピア)への道につながり、文化のコペルニクス的革命のような状況を促し得ることを論じて、発表の終わりとしたい。なぜなら、文化交流の相互発展は、経済・金融面での世界破壊に対する真の解決策となり得るからである。

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